哲学者と情報学研究者が考えるn=1
哲学者と情報学研究者が「唯一無二の個人」の意義を探る。日常の気づきからAI時代の課題まで、「n=1」の視点で世界を再考する。
数値化される社会で見逃されがちな、個人の言葉と経験の価値とは?「あなた」と社会の新たな関係性を探る。
つっかえつっかえでも/永井 玲衣さん(哲学者)
偉い人の言葉に頼らない
誰もが日々、人生や世界について考えています。哲学しています。「なんで人は独り言を言うのか?」とか「将来の夢を持たなきゃだめ?」とか。それだって哲学です。
私は大人から子どもまでさまざまな世代の人たちと「哲学対話」を行っています。そこで大切にしているのは、有名な哲学者の言葉や専門用語を使わずに、自分の言葉で話すことです。まさに「n=1」の言葉です。偉い人の言葉に頼ると、どうしても「正解」を言おうとしてしまいます。でも大切なのは、自分で考えること。たとえその言葉が拙くても、つっかえつっかえでも、自分の中から出てきた言葉には意味がある。下手くそな言葉や拙い表現の方が、本質的なことを言っていることがあります。その人の思考のプロセスや、まだ形になっていない直感のようなものが見えてくる。だから新しい発見や気づきにつながるんです。
私は著書で詩や短歌をよく引用します。哲学者も詩人も歌人も世界をつかまえようとしている人ではあると思う。哲学者は不器用だけど誠実な仕方で、世界に向き合っていますが、詩人や歌人は、それを表現の部分にまで高めています。でもどちらも世界で右往左往しています。そこがいい。
スキニージーンズがきつい
例えば、短歌って本当に断片的な瞬間を捉えるんですよね。岡野大嗣さんの「完全に止まったはずの地下鉄がちょっと動いてみんなよろける」という歌。一見するとどうでもいい瞬間を切り取る。でも、そこに人生の一瞬が凝縮されているんです。それってまさにn=1の世界観だと思うんです。個人の存在の特殊性と普遍性が同時に浮かび上がってくるんです。情報としては無意味だけど、かけがえのない瞬間です。
ある若い女性に東日本大震災の記憶を尋ねた時、「スキニージーンズがきついと思いました」と言ったんです。きっと避難しても、眠りにくかったんでしょうね。公的な記録には残らないし、災害は数字の多寡で語られがちだけど、ここにはすごく切実なものがある。こういう記憶を忘れたくない。私はマイナーなものが大事だと主張したいわけではないんです。むしろ、マイナーなものもあるということを伝えたいんです。富士山が美しいというのは多くの人が言ってくれている。それはそれで素晴らしい。でも、スキニージーンズのような個人レベルの小さな体験も尊い。
ブチギレてくれた人がいる
社会って、どうしても多数派が制しているように見える。でも、ゆっくりかもしれないけど、社会は変えることができる。性的マイノリティーや障害者をめぐる状況もかつてよりはマシになっている。それはめちゃくちゃブチギレてくれた人がいたからです。「n=1」という存在は無力だけれど、意味があるんですよ。
デモではみんな一つの意見を訴えているように見えるけど、その過程や理由が一つ一つ違います。バラバラな人たちが共にいるんです。あなたが「n=1」なら、その隣にいる人も「n=1」。それがどうやったら一緒にいられるか。協力できるか。つっかえつっかえでも、考えていきましょう。
発酵し続ける「n=1」/ドミニク・チェンさん(情報学研究者)
個々の体験だから強くなる
現代はすべてが数値によって情報の価値が表されてしまう傾向にあります。いいねやリポストの数、PV数など、私たちは知らず知らず「戦闘力」を検知し合う状況に巻き込まれています。これは「n=1」というただ1人の感覚や経験の対極にある現象です。
一方で、「n=1」の強みは、まだ議論もされていないような現象や知られていない事柄を、一人一人の語りから引き出せる点にあります。例えば、私の研究室では、個人の体験や関心から出発するプロセスを大事にしています。「AIが流行しているから」などという「数」を根拠にする理由で始まる研究は往々にして弱いし、結果としてつまらないものになる。でも、「僕はAIを使って絵を描いているけど、便利な反面、クリエイティビティの面で危機感を覚える」という「n=1」の理由があれば強くなるんです。
テクノロジーの世界であっても人類学的な手法で「n=1」の価値が見直されています。たとえばメタバースの世界に入り込み、インタビューを繰り返すような研究手法が注目されています。これは単なる数値では捉えられない、個々の体験や感覚を重視するアプローチです。
「やっちゃう」人間
テクノロジーと言えば、ChatGPTのような最新のAIモデルは、コンプライアンスや信頼性の観点から、変なことを言ったり、嘘をついたりしないように開発・更新されています。少し前までは、間違って当然のような存在だったんですけどね。これは創造性や予想外の面白さを減少させる可能性もあります。AIに過剰に頼る人間は面白みのない存在になるでしょう。正しいことしか言わない人とは友達になれないでしょう?(笑)。
個々人の予測不可能性や創造性って大切ですよ。例えば、北陸の珍味「フグの子の糠漬け」。これは致命的な毒を持つフグの卵巣を材料に偶然や好奇心から「作っちゃった」んです。発酵食品の多くは、このような偶然や人間の冒険心から生まれたものだと考えられます。n=1の突飛な行動が、新しい創造につながる。ChatGPTは毒から目をそらす。しかし人間は時に「やっちゃう」。
「私」は更新される
強固な個人主義を守るべきだということではありません。私たちは常に外界から影響を受け、変化し続けています。例えば、「発酵」の過程を考えてみましょう。同じ材料で作ったぬか床でも、置く場所や扱う人によって全く違う味になっていきます。これは人間も同じで、私たちは知らず知らずのうちに、周囲の環境や他者から影響を受けて変化しているのです。
「n=1」という存在は固定的な個人ではなく、むしろ常に開かれた存在なんですね。強固なコンクリートの壁ではなく、穴だらけの柔らかい膜に包まれているイメージです。外界からの影響を受け入れつつも、ある程度の自己同一性は保つ。そんな柔軟な存在です。「n=1」の背景には、「n=百兆」とも言えるような無数の要因が存在している。私たちの体内では常に細胞が作り変えられているように、私たちの意識や存在も、目に見えない無数の影響によって絶えず更新されているのです。