n=1のエトセトラ
今回のテーマは「n=1」。数学の証明でおなじみかもしれません。そして、統計やマーケティングでも活躍する言葉でもあります。
社会では多くのデータ(例えば1万人分のアンケート結果)が飛び交う一方で、「n=1」、つまり”たった1つ“の事例を詳細に分析することも大切にします。そこで今回、この「n=1」の持つ可能性に注目します。
歴史を変えた1人の決断もあれば、数字だけでは見えてこない深い感情や経験もあります。SNSなどでは、たった一つの経験や事例を一般化して話をする人を「それってn=1じゃん」と批判する人もいますが、「1」は大きな可能性を秘めています。まずは「n=1」のいろいろなエピソードを調べてみました。
01 たかが1票されど1票
1人1票。選挙で投票に行って何の意味があるのだろう。そんなことを考える人はいませんか。いやいや、意味はあります。その1票によって結果が変わってしまうことなんて、たびたびあるのです。例えば、今年4月の岡山県笠岡市の市議選では、現職の奥野泰久氏と新人の金振鎬氏が最後の一つの議席をめぐって同じ得票数で並び、くじ引きの結果、奥野氏が当選しました。こういった事例は全国のニュースを眺めていると、毎年あります。選挙でなくても、議会の議案や漫才コンクールの結果だって1票差でひっくり返ることなんてよくあります。1票の力は大きいですよ。
02 自分の判断で核戦争を防いでしまう
世界の平和を守っているのは、一国のリーダー以上に、組織の一員なのかもしれません。1962年。アメリカとソ連はキューバミサイル危機の最中にありました。ソ連がキューバへ核ミサイルを配備しようとしたことに対し、アメリカが武力で阻止しようとしていたのです。
そんなタイミングで、ソ連の潜水艦がアメリカ海軍からの攻撃を感知しました。艦長は核弾頭を付けた魚雷を発射しようとしましたが、参謀長のヴァシーリー・アルヒーポフが冷静に反対しました。アルヒーポフは射撃の方向から攻撃ではなく、警告だと判断していたのです。もし、発射されていれば核ミサイルの応酬により、何百万人も命が失われていました。この事実は冷戦終結後に明らかになり、後年になって高く評価されました。「n=1」の決断が、世界の歴史の流れを変えた可能性があるのです。
03 胃潰瘍の原因発見してノーベル賞受賞
オーストラリアの医師バリー・マーシャルは、とても勇敢な人物です。彼はまず「多くの胃潰瘍の患者の胃にはピロリ菌」がいるという事実を確認します。そこでピロリ菌が胃炎の原因かどうか調べようとします。しかし、動物実験では明確に結果が出ません。そこで驚くべき行動に走ります。マーシャルは自らを被験者とする「n=1」の実験を決行しました。つまり、自らピロリ菌を飲んだのです。すぐに吐き気や腹痛の症状が出て、ピロリ菌が炎症を引き起こすという自説を証明しました。
この「n=1」の事例は医学界に大きな影響を与えました。この功績により、彼は後にノーベル賞を受賞しています。みんなは真似しないように。
04 武力行使に1だけ反対
2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きました。議会は大統領に武力行使を認める決議を採択します。しかし、上下両院全ての議員の中で、バーバラ・リー下院議員だけが反対しました。508人の中でたった1人です。「軍事行動によってさらなるテロを防ぐことはできない」と訴えました。
当時、リーの判断は激しく批判されます。愛国心がなく、反アメリカ的とされました。殺害の脅迫も受けるほどでした。しかし、イラク戦争の長期化や、戦争の正当性への疑問の声が大きくなり、彼女の慎重な姿勢は再評価されています。ある瞬間においては疑問視されることが大きな歴史の中で評価が好転することがしばしばあります。
05 それもアートなんですか
アートこそ、それぞれが唯一無二。「n=1」の存在と言えます。アートは社会の鏡として機能し、人々に新しい視点や価値観を提示します。美すら追求しないものもあります。皆さんも美術館で「これがアートなのか」と衝撃を受けた作品もあるでしょう。アメリカ人アーティストのアンドレス・セラーノの「ピス・キリスト」は、自らの尿で満たした容器に入れたキリスト像の写真を作品としました。イタリアのアーティスト、ピエール・マンゾーニは自身の排泄物を缶詰に入れ、金30gと同じ価格で売りました。「悪ふざけ」と批判するのは簡単なのですが、「芸術とは何なのか」と考えさせる力は間違いなくあります。
参考資料:北日本新聞、山陽新聞、『ノーベル賞を知る1命を救う大発見!ノーベル生理学・医学賞』(監・若林文高、講談社)、『なぜ人はアートを楽しむように進化したのか』(アンジャン・チャタジー著/田沢恭子訳、草思社)、『イタリア美術1945-1995見えるものと見えないもの』展覧会図録、『キューバ・ミサイル危機』(マーティン・J・シャーウィン著、三浦元訳、白水社)